港町が生んだ偉大な功績、丸山 龍馬ら海援隊の人気今も(産経新聞)

 長崎の花柳街・丸山は幕末期、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町と並び称される遊郭だった。その一角で、当時からの建物で営業を続けているのが、県の史跡に指定されている「史跡料亭『花月』」だ。

 寛永19(1642)年に創業した前身の「引田屋花月楼」は、江戸時代を通じて丸山で最も格式の高い遊郭とされ、当時も外国商人と取引しようとする各藩の藩士らが盛んに利用していたという。

 坂本龍馬ら海援隊や土佐藩も例外ではなかった。施設内にある資料コーナーでは、海援隊が英国水兵殺害を疑われたイカルス号事件で、龍馬が長崎奉行所に提出した抗議文の下書きなど約50点を展示、幕末の志士の勇躍もしのばせる。

 そして、今も大広間の床柱には、「龍馬がつけた」と伝えられる刀傷が残っている。

 「刀傷については、後に高杉晋作がつけたとか、さまざまな説が出てきたが、店では、まだ龍馬が国民的なヒーローになっていなかった大正や昭和初期の時代から、龍馬がつけた傷という説があった。当時はそれほど有名ではなかった人物であり、龍馬説は店のPRのためとも思えない。だから、むしろ信憑(しんぴょう)性があると思う」

 花月の従業員で、花月史編集プロジェクトリーダーの加藤貴行さん(38)は、こう話す。

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 戦後の高度経済成長期、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で一気に知名度が高まった龍馬。長崎にも数多くのファンが生まれ、その熱烈な思いが結実した名所もある。

 市街地や長崎港を見渡す風頭山頂の風頭公園一角に立つ高さ約3メートルの龍馬の銅像は、立案から資金集めまで地元の青年らが進め、平成元年5月に建立された。発起人は筋金入りの龍馬ファンで、焼き鳥店「風雲児焼とり竜馬」を経営する河野健一さん(62)。昭和54年に開業し、全国から口コミで龍馬ファンが集まるようになった。常連たちの前で、「長崎に龍馬の銅像ば建てたかねえ」と口にしたのがきっかけで、建立計画が動き出した。

 計画には、地元の龍馬ファンでつくる「長崎龍馬会」の前会長、柴崎賀広さん(53)が真っ先に賛同した。「全国龍馬社中」の理事を務めるほか、「現代龍馬学会」にも所属するなど、龍馬一途の柴崎さんは、「まるで龍馬になった気分」で計画を推進。昭和62年6月には「龍馬の銅像建つうで会」が発足し、会長として建立に全力を挙げた。

 1千万円を目標に始めた募金は約1200万円に達し、計画のスタートからわずか2年で念願の銅像建立が実現。建立計画を足がかりに、建つうで会はその後、長崎龍馬会に発展し、全国の龍馬ファンの組織と交流などを続けている。

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 長崎を拠点に、龍馬自身も活動の舞台を広げ、数々の功績を残した。

 「歴史に残る龍馬の仕事のほとんどが、長崎に本拠地を持って以降。薩長同盟の実現、第2次幕長戦争での海戦、五箇条の御誓文の原型とされる船中八策の作成、大政奉還の立案、みんなそう。その長崎が、龍馬を忘れちゃいかんと思うたと」。柴崎さんは、龍馬に寄せる思いを熱っぽく語る。

 幕末当時、すでに横浜、函館、兵庫なども米英などに開港されていたが、長崎は長い鎖国の間もオランダ、中国との貿易が認められていた。

 司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で、龍馬に「勝(海舟)先生、京のさきは大阪にすぎず、江戸のさきは小田原にすぎませんが、長崎のむこうは上海ですな」と語らせている。

 龍馬にとって、大きな飛躍の地となった港町・長崎。龍馬と長崎のかかわりについて、河野さんはこう指摘する。

 「龍馬は長崎の人やなかし、実際に住んだ期間は短かばってん、当時、日本で最も海外に向かって開かれていた長崎の街がなければ、亀山社中も海援隊も生まれんかったと思う」

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 「龍馬と長崎」 龍馬が元治元(1864)年、初めて長崎を訪れたときの滞在日数は2月から4月にかけての41日間。約1年半後に亀山社中を結成するが、龍馬自身は京都、大坂、長州、薩摩を飛び回り、長崎にあまり落ち着いていない。その後の長崎での主な業績は、慶応3(1867)年春の海援隊の結成、同年5月のいろは丸沈没による紀州藩との賠償交渉、8月から9月にかけてのイカルス号事件の処理などがある。9月18日には、長州、土佐経由で兵庫に向けて長崎を出帆。11月15日に京都で暗殺され、長崎に戻ることはなかった。12月中旬には、長崎で海援隊士らによる慰霊祭が営まれている。(服部幸一)

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阪神大震災 「『あの日』の絵」と橘先生(産経新聞)

 5回にわたって連載した「震災の絵」。15年を経て、強く、そして優しく成長した教え子たちの姿は、震災当時、明親小5年1組の担任だった橘俊一郎さん(62)も喜ばせた。橘さんは「お礼にかえて」と、当時の関係者に「『あの日』の絵」と題した文書を送った(文中一部略)。

 《子供たちに絵を描く話が舞い込んだのは、やっとの思いで学校再開にこぎつけて間もなくのことでした。登校してきた子供たちの心のケアが最重要課題として眼前に突きつけられていた時期。傷ついた子供たちに追い打ちをかけるように、悲しく辛い出来事をわざわざ思い出させることなどもっての外のことでした》

 それでも、橘さんは子供たちの前向きな姿勢に驚かされ、描くことを決めた。

 「先生、描こうや。ぼくら大丈夫や」「絵の具なんかなかったかてええやん。鉛筆でもサインペンだけでもええやん。みんなで貸しおうたらええやん」

 しかし、子供たちの心の傷は癒えていたわけではなかった。

 《描きながら涙を流す子、固まってしまう子、ぼんやりと窓の外を見つめる子、音がするたびにビクッとする子…》

 現在は神戸市教委に勤務する橘さんは紙面での教え子との「再会」を喜んだ。

 《縁あって「あの日」の絵が産経新聞に連載されることになったのです。紙面を通じてですが、逞(たくま)しく、素敵(すてき)に成長した彼らに出会うことができました》

 今も、彼らのことは決して忘れていない。昨秋、神戸市中央区の「人と防災未来センター」で子供たちに絵の展覧会が開催されたとき、ひと目で作者の紹介文の誤りに気付いた。誰がどんな絵を描いたかはすべて覚えている。

 「私も彼らに負けないように、まだ頑張りますよ」と話す橘さんは、文書を次のように結んだ。

 《あの日の絵…彼らに、神様が与えてくださった最高のアルバムだと思っています》

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